ボランティア:故 松井孝夫院長の記事

ボランティアの始まり・・・故 松井孝夫院長の記事

掲載雑誌名:日本の眼科 75:4号(2004)
タイトル:日本のNGOによる国際眼科医療活動
筆者:飽浦淳介(串本リハビリセンター、あさぎり病院、アジア眼科医療協力会)

序文で、次のように述べられている。
日本の国際眼科医療協力というと、世界保健機構(WHO)の失明予防活動として、順天堂大学の中島章氏や紺山和一氏らの多年にわたる活動や、国際協力事業団(JICA)から派遣された多くの眼科医の活動を忘れてはならないが、一市民や市民組織(NGO)による眼科医療協力もまた古くから行なわれてきた。日本のNGOは米国やEU諸国のそれに比べ、歴史も浅く規模も小さいと言わざるを得ないが、それでもわが日本の眼科医やその協力者たちはキラリと光る活動を行なってきたと思う。

そして、大島眼科病院の故松井孝夫院長が「活動の歴史と現在」(本文タイトル)の中で次のように紹介されている。

「松井孝夫と中国その他の国々」
大島眼科病院(福岡)の故松井孝夫院長は、1963年、眼病が放置されている無医村の島の患者を救おうと九州の離島生月島に行ったのがボランティア活動の始まりで、海外での活動は1998年からで、ミクロネシア・ヤップ島(2回)を皮切りに、マレーシア・イポー市(2回)、中国では撫順市(5回)、瀋陽市 (3回)、大連市(3回)、東営市等を、多くのスタッフ(多い時は30人)と共に訪れ、1998年までの11年間で計634名の手術を行なうとともに講義、手術指導及び医療器具の寄贈を行なっている。費用は毎年1千万円以上掛るが、全て松井氏の負担であった。 2000年以降はまた原点に戻り、沖縄の離島の診療に重点を置くようになっていたが、2003年12月急逝した。氏が若い人に残している言葉を一つ、「人はどんな人でも奉仕の心を持っている。金と暇を持て余している人がするのではなく、わずかばかりの無駄を省き奉仕をするのである。若い時にこそできることをできる時に、人のため社会のため、ひいては世界平和のために頑張って奉仕の心を大きく育ててほしいと思う。」

そして筆者は次のように締めくくっている。
世界は広大であり、我々の活動は広い世界のごく一部に過ぎない。また我々の活動を必要としている地域は政情的にも決して安全ともいえない。戦争やテロが絶えないこの地球上において、市民によるNGOの活動は一つの運動だと思う。ちっぽけな運動であっても、安全でなくてもやらなければならないヒューマニズムに根ざした運動だと思う。・・・・・・・NGOの一つひとつは小さくても、世界中の小さな善意が集まって国家や宗教や民族を越えて時代を動かし平和をもたらす大きなうねりとなることを願っている。

つぎの記事は、情報誌「HAKATA KOMA:No.111(1999年9月15日発行)」に掲載されたものです。
すべてはよかトピアから始まった
アジアマンスをきっかけに幾つもの出会いや交流が生まれているように、アジアマンスの生みの親である「アジア太平洋博覧会」(よかトピア)で始まった交流も数々ある。そこで本家本元よかトピア発のエピソードをご紹介したい。

5000キロメートル カヌーの旅に敬意 眼科検診ボランティア
博多区にある大島眼科病院の松井孝夫院長は1963年から眼科診療ボランティアに取り組み、国内はもとより海外へも足を運んでいる。よかトピア開催の前年には、眼科診療のためミクロネシア連邦ヤップ州を訪問した。これはよかトピアのプレイベントとして、ミクロネシアのヤップ州の人が5000キロメートルの海上をカヌーを漕いではるばる福岡までやってくるという企画が持ち上がった時に「ミクロネシアには眼科がないので困っている」という話を聞き、ミクロネシア連邦の要請を受けた松井院長が「ヤップの人がよかトピアのイベントのために命懸けで冒険をしてくれるのだから、福岡市民としても何かお礼をしたい」という気持ちから実現したもの。そして1ヶ月に2週間ずつ、3ヶ月に渡って現地での眼科診療が行われたという。まさに海を越えたミクロネシアと福岡の交流エピソードである。