ボランティア:スタッフ感想文

ボランティア参加後のスタッフ感想文

岡城 豊子(旧姓:梅本) [手術室看護師]
昭和63年2月に、ミクロネシア連邦ヤップ州にボランティアで行った時のことですが、現地は当時乾季で、生活用水にも事欠く状態でした。ホテルでは、シャワーの水は当然出ず、福岡市出身で現地に移住してある方が、快く貴重な水を提供して下さり、一日の疲れをとることができました。 朝は部屋の前に置かれた、小さなポットに入った水を手に受けて顔に掛ける洗顔方法でした。

病院は、アメリカと韓国の合同で建てられた近代的なものでしたが、手術室では、水が出ず、近くの島より船で運んで貰ったのですが、蛇口からは、いつまでも泥水が出て困りました。私達は日頃、水は蛇口をひねると出るものと思っているだけに、想像もつかないような日々でした。それでも、現地の人々はみな元気で、明るい人たちばかりでした。尚、お年寄りの方が日本語を話されたり、日本の古い歌を憶えておられるのは感慨無量でした。

仕事はオペ(手術)室勤務で、朝から夜まで閉じこもっておりましたので、患者さんと接する時間がなく、思い出に残っているのは忙しかったことばかりです。

山本 美穂 [外来看護師]
第16回は天安門事件後だったので、生まれてはじめて、ボディガードに囲まれて行動。国内線の飛行機が前日飛ばず、急きょ夜行列車で一晩かけて沈陽に移動。見渡すかぎり地平線、畑。おどろきでした。

毎回カルテとPt(患者さん)が違わないように、あの手、この手、頭を悩ませ、通訳の方はドクター付きなので、ナースはほうり出され、身ぶり、手ぶり、適当に聞いた中国語を話し、ムリヤリ話を通した事も多々。術中に、大声で話し、ビックリされた事もありました。その後は、(中国語を)勉強しましたが、身に付かずのままでした。

第19回(マレーシア)/手術中に挙筋短縮の手順を通訳しろといわれ(相手はドクター)、略語集と英会話のノートを指でさし、ハサミさえ英語がわからず、指二本でチョキチョキした事もありました。

熊野 祐司 [副院長・医局長]
私は平成10年に第28回のボランティア診療に参加させてもらいました。行き先は中国山東省 東営市 勝利油田中心病院でした。空港を降りてから6時間くらい車で行かなければならない奥地でした。でもそこは無医村ではなく、立派な病院が建っている市でした。市がわれわれに用意してくれていたホテルも立派でした。なのに白内障手術を受けられない患者さんがいっぱいだったのです。

病院という立派な建物はあっても、白内障手術を行うための超音波の器械がなく、またその超音波を使っての白内障手術を行う医師がいなかったのです。あれからすでに6年経っていますが、当時も中国では都市部にいけば、日本とかわらない医療を受けられました。近視矯正手術もすでに行われていました。もちろん白内障手術(超音波乳化吸引術)も行われていました。しかし、郡部では事情が異なっていたのです。ボランティア診療が求められていたのです。

当時福岡大学眼科での留学を終えた中国人の趙培泉さんが故郷に帰って、故郷の現状を嘆き、故松井孝夫院長にボランティア診療を依頼されたのが始まりでした。趙培泉さんの恩師である福岡大学の眼科教授大島健司先生と故松井孝夫院長とに強いパイプがあったこともこのボランティアが実ったひとつの理由かもしれません。

手術前、手術中、手術後にはそれぞれ器械が必要です。屈折測定器、眼軸測定器、手術顕微鏡、白内障超音波手術器械、手術器具、細隙燈顕微鏡、眼底検査器が要ります。これらすべてを持ち込んでの手術でした。各患者さんの眼内に挿入する眼内レンズ(患者人数分)も持って行きました。手術に使う薬品、手術用ガウン、手術手袋も当然持ち込みです。すべてを持ち込んでのボランティア診療でした。

医師は松井孝夫院長(当時)、矢部伸幸手術医長と私の3名。それに看護師さんやパラメディアルスタッフを合わせて20数名で約1週間滞在し、50名くらいの患者さんに白内障手術をおこなったと思います。手術にトラブルはなく、経過も全患者良好で大変喜ばれたと思います。

手術を行っただけではなく、現地の眼科医にその手術を見てもらい、手術のノウハウを覚えてもらい、また手術器械の使い方も覚えてもらい、その器械器具を寄付までしたのです。また術後の点眼薬も寄付しました。やりっぱなしの診療ボランティアではなく、その後のフォローまで考えたボランティアでした。すべては故松井院長の采配でした。ボランティアとしては大成功だったと感じます。

このような無償の奉仕ができたことはやはり言葉では言い表せられない感動でした。このような機会を与えてくださった故松井孝夫院長に感謝します。

児玉 京子 [外来師長]
私は第9回長崎県(上五島)有川町のボランティア診療スタッフ一員として行きました。有川町へは、スタッフ全員が、6~8人乗りチャーター機で板付空港から出発しました。上五島の飛行場は絶壁のところにあり、車輪が滑走路に着くまでは、ハラハラドキドキしていたことを思い出します。

当時は手術室勤務のため、手術係として器械の準備をし、数量をチェックし、消毒物、必要物品を書き出し、他の部署との連携を取りながら、箱詰めしたことを覚えています。 有川町では、今か今かと診察を待ちわびている患者様が、朝早くより来院され、手術が必要とされる方々を、午前、午後と順番通り、夜7時過ぎ迄施行しました。

翌日、手術を受けた患者様からお話を伺ってみると、「怖いと思っていた、眼の手術であるが、終ってみると、暗かった見え方が明るくなり、見え方が変り、はっきり見えるようになった」とか、「これからも仕事を永く続けていくことが出来るようになり、ほんとうによかった」と言われた言葉が心に残っています。

これからも、眼科医療を必要とされる患者様一人一人に希望をあたえ続けていきたいと思います。 また、私も眼科スタッフの一員としてボランティアに参加出来たことを誇りに思い、これからも若いスタッフにバトンタッチをし、このような貴重な経験をたくさんしてもらいたいと思います。

北原 重子 [事務部]
20年前のことなので記憶がなく、覚えていることは、受付をしたことと、職員の人にコーヒーを配ったことです。朝早く、博多駅に国鉄で行き、飛行場から小さな6人乗りのセスナ機に乗りましたが、セスナ機の床にすき間があり、下が見えていてとても恐ろしい思いをしたことを思い出します。

大変だなと思ったことは、院長は、診療だけでなく、手術もされたから、手術器具、薬品、その他全てを持って診療に行かなければならないことでした。 ボランティアに行く為の準備、ミーティングは全て一日の仕事が終った後、職員みんなが、遅くまで残ってやっていました。何もない所に、医療器具、カルテなど必要なものを全て持っていかなければならない為、手術器具の大きなものは、木の箱で梱包したり、たくさんの荷作りに追われていました。

先に出発した人が、手術の機械を設置し、病院を作って準備しました。大変な作業でした。それが終ってはじめて、手術、診療ができる態勢が整うのですから、とにかく大変だったと思います。 でも、離島で眼科がなく、診察が出来なくて、眼の病気で困っている人のことを考えると、心の中では、みんな一つの目標に向かって一つになって仕事をしていました。

たくさんの人が診察に来て喜んでくれた時は、大変だったこと、きつかった事は忘れていました。喜びだけが残りました。小さな親切運動の方から感謝され、ボランティアに行った職員にバッジが贈られました。たった一度でしたが、参加できたことはとても良かったと思っています。

目良 りか [外来看護師]
参加、16回、17回とにかく、ハードで、一日の仕事が終わり、ホテルに帰ってベッドにバタン!と倒れ込んでしまう毎日でした。ボランティアで行なう手術、処置に必要な物品は、全て持参だった為、準備をして荷作りまでが、また、一苦労でした。中国のスタッフ、患者さんとの言葉の問題は、ジェスチャーや漢字をメモに書き合い、コンタクトを取ることで、あまり問題を感じませんでした。

診療の中で一番の思い出は、10才の男の子のことです。外傷で視力低下し、何日もかけて列車で病院に来られ、院長にすがりついて、“診てくれ!”と頼み込み、予定外で白内障手術を全身麻酔で行なった事です。

術後、視力が出て、親子で喜ぶ様子をみて涙が出たことが忘れられません。日本との医療事情の違いを痛感させられたシーンでした。

E.N. [事務部]
私が参加した場所は、沖縄県南大東島、北大東島です。2001年です。沖縄から約400キロの距離、台風情報で聞くくらいしかない遠い離れ小島でした。那覇~沖縄間の飛行料金は、福岡~羽田間と変らない料金だったのを覚えています。現地では受付、カルテ整理、記録係をしておりましたが、村の方(患者さん)が続々とお越しになり、私も簡単な検査をするようになりました。(OMA取得者として)

患者さんは、定期検診目的から、疾病のため那覇に受診している方まで様々でした。白内障の手術器具(超音波白内障手術装置)を組み立てていたら、役場の方が「こんな大掛かりな診療団の来訪は今まで見たことも聞いたこともない」と、感心されていたのを思い出します。

今回のボランティア診療は、白内障の手術器具を持ち込みましたので、医師団は白内障を中心に、翼状片などの手術をしました。翌日の術後検査には、「よく見える」という声を聞くたびに、この診療団にかかわれたことをうれしく思いました。

さて、次の目的地の北大東島に向かうため、飛行場のロビーで待っていると、手術を受けた患者さんや家族が続々と見送りに来てくださり、お礼を述べられ、感謝されている様を目の当たりにし、目頭が熱くなっていくのを感じました。

北大東島は、診療団が行くのは初めてでした。なんでも、以前に南大東島に診療団として赴き、飛行場のロビーで那覇行きの飛行機を待っているときに、北大東島駐在の警察官がたまたまそこにいて、診療団の話を聞き、是非、北大東島にも来てもらいたいと要望されたということだったようです。

たしか、北大東島の全人口の四分の一にあたる人数が受診されたと思います。北大東でも南大東と同様に、白内障、翼状片、内反症の手術を行ないました。松井孝夫診療団団長は「ボランティアに行った先々で感謝されるが、いやいや、こちらの方こそ島の人々とのふれあいに心を洗濯してもらっている」とおっしゃられていました。

素朴な島の人々と青い海と空。そして、宝石箱をひっくり返したような満天の星空。確かに自分も癒されている。そんな気がしました。たまたま、獅子座流星群の当たり年で、夜中、宿舎を抜け出し、駐車場に寝転がり、満天の空に流星群をみながら、いつのまにか寝てしまったことなど、生涯わすれることがないボランティア診療の思い出でした。

佐竹 桂子 [秘書課]
(孝夫院長から伺った思い出話)中国でのボランティア活動を始めて初期のころのお話かと思います。中国では新聞にボランティア診療のことが掲載されると、とても多くの方が希望されるため、病院側が患者さんをあらかじめ選んでおきます。

診察を受けられない方も大変多いのだそうですが、ある日突然、自分の前に小さな男の子を連れた父親が土下座をして何か頼んでいる。通訳の方に聞くと、「この親子はボランティア診療のことを知って何日もかけてここまで来た。ぜひ子供の眼を治してほしい」とのこと。見るからに貧しそうな親子は頭を地面にこすらんばかりに必死で頼まれたそうです。院長は「よくここまで子供を連れて来られましたね。わかりました。」と、中国の政府の方に、ぜひ患者として登録するようお願いしたとのことでした。

無事、男の子の手術もすんで、その親子が帰る日に、院長のところに父親がやってきて、大きな包みを差し出して「お礼だからぜひ受け取ってほしい」と言われました。院長は最初、この親子の姿を見たときに、「仕事も休んで何日もかけて来て、汽車賃さえあったのか」と思われたぐらいで、「いいえ、何も気を使われることはありませんよ」とお返ししようとするが、また土下座をして、そして、その品を院長におしつけるように渡していかれたそうです。

見てみると、それは立派な象牙の置物で、大変高価な物だったそうです。中国の方が言われるには「貧しい家だから、多分ここまでの旅費などを考えると財産をはたいて来たのではないか」といわれ、院長は、その後も、その親子のことを思い出すと、とても胸が熱くなると仰しゃっていました。そして、「その象牙の置物は今も自宅に飾っていて、自分の宝物になっている」とも言われていました。

(第29回南大東島ボランティアに参加して)生まれて初めてのボランティア体験で、「ボランティアは、ひとのためじゃなくて、自分のためにするものだった」という意識を持ちました。皆さんの喜ばれる姿が、何よりの支えとなって、自分自身に大切なことを沢山教えてもらいました。全員が優しい前向きさで助け合いました。

孝夫院長からは、「病院でもいつもこのくらい仕事をしてくれたら良かろうになあ」といわれるほど、実力以上の力をスタッフの皆さんは発揮されていたと思います。このような活動を長年続け、感動を重ねてきた孝夫院長と、その感動を共有できたスタッフは、誇りを持って、これからもがんばっていけると思います。

貴重な体験をありがとうございました。思い出すと今でも、そんな気持ちでいっぱいになります。

[事務部施設管理係主任]
(ボランティア設営に携わって思い出されること)設営にかかわる私の仕事は、出掛ける前から薬品関係を除く一切の機材を調達、荷造り、梱包し、送り出すところから始まる。荷物は、国内でコンテナ1台分、海外に行く場合は2台分ぐらいにもなる。現地診療のスケジュールが決まると、国内なら現地に出掛けて行き、海外の場合は現地から建物や敷地の図面を送ってもらい、手術をどこでやるとか外来をどこにするとかを決めてくる。本番の設営は、原則として器械の専門家と2人で進めるが、早く言えば現地に一つの病院を作って本隊を迎えるということだ。既設の公民館とか体育館、総合センターなどに、まず検査施設、外来診察場、手術場、患者用休憩室の順に大体2セットを設営する

税関の入・出国関係の仕事も設営のひとつだが、苦い思い出もある。私が参加2年目に行った中国の出国時には、税関職員に一度荷造りを済ませた荷物を全部開けさせられてしまった。わざわざ荷ほどきをさせられ、リストと中身とを照らし合わせながら、逐一調べ上げられることになったのだ。中国行きの最初は遼寧省の撫順だったが、ちょうど中国全土を揺るがせた天安門事件と当方の日程がぶっつかってしまった。旅程が北京経由だったこともあって、先方からは「訪中を見合わせてもらえないか」と言ってきた。しかし、松井孝夫前院長は「ボランティアなのだから、こんなときにこそ行くべきだ」と積極的だった。「ただし、万一の事態も考え、皆さんは家族の了解を取ってきてもらいたい」と促され、事件の1カ月後に悲壮な決意で出発した。予定通り、北京から列車に揺られて現地に行ったが、道中は、ずっと憲兵に付き添われるというものものしさだった。

あちらの病院(4・5階建て。ベッド数もかなりある眼科病院だった)にも、治療のための器械はいろいろあったのだが、どうやら一度故障すると直し方が分からなかったらしくて、そのままで放置されてしまっており、私たちで器械の修理まで引き受け、大いに感謝された。

われわれが行くことは、事前に新聞やテレビの報道で知られていて、かなり遠方まで評判になっていたらしい。そんなある日、スタッフが昼食をとりに隣のビルへ行こうとしていると、1組の親子が受診を待つ人波をかき分け、何事か大声でわめき立てながら駆け寄ってくる。最初はびっくりしたが、しだいに事情が飲み込めてきた。連れている小学校5・6年生ぐらいの男の子の目を「何とか見えるように治してやってほしい」と、石畳に土下座して頭をこすりつけ、子供の頭も押さえつけながら「手術してくれるまで帰らない」と懇願するのである。聞けば、無料診療のニュースを知って、わざわざ家財道具を処分して旅費を作り、列車で1週間もかかる田舎から撫順に来て、市内の公園に寝泊りしながら数日間、われわれと接触する機会を待っていたのだという。しかし、診療は中国の制度に倣った予約制を採用していたため、VIP関係優先になっており、手術はおろか受診の枠にも入れてもらえない。思い余って診療団に直訴してきたということだった。

同情を誘われる話である。手術してあげられればいいのだが・・・と私は思ったし、同行のみんなも口々に「何とかできないものだろうか」と言い合った。しかし、持ち込んだ器材には限度があった。余分の手術を割り込ませることによって、予定した手術に差し支えが起こるかもしれない。さすがの松井孝夫前院長も「どうするかいな」と腕組みされたが、みんなの「やりましょうよ」という声に励まされるように「よし、そうしよう!」と決断された。話を聞いた中国側のスタッフもお金を出し合って協力してくれた。そのあたりは『一人っ子政策』で子供を非常に大切にする中国らしい出来事だった。

中国では、あちらの医師が手術を見学する。顕微鏡から映像を撮って別棟のモニターで見せたが、何日目かに、昼を過ぎてもモニターがついていないことがあった。見に行ったら、何も映らないモニターの前で全員がじっと待機している。いつまでも映らないので待っているのだという。調べてみたら、電圧がポーンと上がってしまっていた。誰かが変圧器をいじったらしい。飛んでいたヒューズを取り替えて、再び映像が見えるようになったら、20~30人もいた医師が全員手をたたいて他愛もなく喜んでくれた。なんとも珍しい体験だった。当時、その病院では、器械があっても手術は一切していなかった。そこで松井孝夫前院長と一緒に医師たちに使い方を手ほどきし、器械も置いて帰ってきた。

器械といえば、マレーシアでは、向こうのドクターに操作を指導した後、新鋭機のアルゴンレーザーを残してきたこともある。松井孝夫前院長は、大連にも瀋陽にも白内障治療装置を一つずつ贈り、撫順にも器械を贈ってきた。随分太っ腹の先生だった。

南大東島では、こんなことがあった。その人の名は比嘉さん。当時80歳で、一人暮らしだった。片方は義眼だったし、片方も白内障が進行して茶色く濁っていた。この人は、手術のときに随分暴れた。後で聞いたら、手術が痛かったのではなくて、なんと尿意を催したせいだと分かった。比嘉さん、土地の言葉でしきりに尿意を訴えたらしいのだが、われわれには理解できず、手術の途中での大暴れとなった次第。最後は笑い話になったが、ご本人にとっては、それどころの騒ぎではなかったろう。翌日、やってきた比嘉さんは「よく見える、よく見える」と大喜び。6・7頭ほど飼っていた山羊の中の1頭を自らさばいて「ぜひ食べてくれ」と持ち込んできた。比嘉さんにとっては、われわれに対する最大の贈り物だったはずだ。しかし、残念ながら福岡には山羊を食べる習慣がない。正直に言って、もらった山羊は臭みが強く、とても食べられたものではなかった。あちらでは、祝い事などのときに山羊をつぶすのだと聞いたし、比嘉さんの誠意は十分に受け止めさせていただいた。当時、島には、時おり眼鏡屋さんが訪れて視力検査をしていたぐらいだから、むろん眼科医院はなく、今でも歯科医が巡回している程度だという。そんな状況だっただけに、あきらめていた視界を新たに開いてくれた白内障手術の結果に狂喜した比嘉さんの気持ちは良く分かる。2度目の南大東島診療のときには、すでに亡くなっておられたが、いまだに忘れられない患者さんの一人である。

ボランティアはきつい。もう来年からは絶対に行かないことにしよう、と思うのだが、終わってみると、また行きたくなってしまう。それがボランティアの魔力であり、魅力なのだろう。